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フレデリック・フランソワ・ショパン (Frédéric François Chopin)の画像

1810 - 1849 ポーランド(Rzeczpospolita Polska)


フレデリック・フランソワ・ショパン(仏名)は1810年3月1日、ポーランド、ワルシャワ公国のほぼ中央に位置するジェラゾヴァ・ヴォラに生まれました。父はヴァイオリン、母はピアノと声楽を嗜むなど音楽的な環境にあり、4歳頃からこうした家庭の中でピアノに触れるようになります。6歳からヴォイチェフ・ジヴヌィのピアノ指導を受け、音楽性の土台を形成していきました。

1817年に最初の作品「ポロネーズ ト短調」を作曲、翌年にはラジヴィウ宮殿でピアノ協奏曲を演奏して卓越した才能が注目を浴びました。

1826年にワルシャワ音楽院に入学。作曲家としてショパンがその個性を発揮するようになるのはこのころからで、「マズルカ風ロンド」(作品5)、「ラ・チ・ダレム変奏曲」(作品2)などが作曲されています。

1829年にワルシャワ音楽院を卒業。ショパンはこの時期に、コンスタンツヤ・グワトコフスカという女性に深く心を寄せており、彼女のために「ワルツ」(作品70-3)を作曲しました。

1830年にワルシャワを去りウィーンに活動の拠点を移しますが、間もなくワルシャワでロシア支配に抵抗する11月革命が勃発して、十分な演奏の機会を得られなったショパンは翌年パリに向かいます。その途上、革命が制圧された知らせを受け大いに絶望して『革命のエチュード』を作曲したとの伝説があります。

ショパンはパリで貴族や資産家からピアノ指導を求めるようになり、生計は一気に好転します。1835年に寄宿舎学校時代以来の友人の妹マリアと再会して、美しく成長したマリアに深く心をとらわれます。そして別れ際にマリアに「別れのワルツ」(作品69-1)を贈ります。翌年ショパンはマリアに求婚しますが、ヴォジンスキ家から婚約を破棄されます。その後、ショパンは女流作家ジョルジュ・サンドと交際を深め、冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活をおくり、この間に『24の前奏曲集』、『幻想曲』、『バラード第4番』、『英雄ポロネーズ』、『舟歌』、『幻想ポロネーズ』などの数多くの傑作を生みだします。

1847年に女流作家ジョルジュ・サンドと別離して孤独な身となったショパンはジェーン・スターリングの勧めもあり、翌年ロンドンに渡りました。イギリスではヴィクトリア女王の隣席の場で演奏会を催すなどの栄誉はありましたが、結核で身体が衰弱していたショパンにとって、この旅行は衰弱を加速させてしまいました。パリに戻ったショパンは病床に伏して、1849年10月17日にポトツカ伯爵夫人、姉ルドヴィカに看取られて39年の生涯を閉じました。

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