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ヨハン・セバスティアン・バッハ (Johann Sebastian Bach)の画像

1685 - 1750 ドイツ(Bundesrepublik Deutschland)


ヨハン・セバスティアン・バッハは1685年3月31日、神聖ローマ帝国 アイゼナハ(現在のドイツ連邦共和国のほぼ中央にある都市)に代々音楽を職業とした一家の末子として生まれました。バッハが9歳の時に母が死去、10歳の時に父が死去し、すでに教会オルガニストとして自立していた兄ヨハン・クリストフの家に引き取られ、勉学に励みました。

1700年、15歳のバッハは自立の道を選んでリューネブルクへ移り、修道院付属学校の給費生となります。1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職し、まもなくアルンシュタットの新教会のオルガニストになります。オルガン曲とクラヴィーア曲のほか、教会カンタータの作曲もこの時代に始まります。バッハの能力は高く評価されており、1707年にはミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに異例の好条件で招れ、主にオルガン曲と『神はわが王』(BWV 71) をはじめとする教会カンタータを作曲します。同年、遠戚でひとつ歳上のマリア・バルバラ・バッハと結婚。やがて7人の子供が生まれます。

1708年、再びヴァイマルに移って宮廷オルガニストとなり、『オルガン小曲集』(BWV 599~644) をはじめ、現存するオルガン曲の大半を作曲します。1714年には楽師長に昇進し、一月に一曲のカンタータを作曲、上演しました。しかし最終的には主家のお家騒動の余波を受けて投獄された後、ヴァイマルを追放されてしまいます。

1717年、ケーテンの宮廷楽長となり、職務としてさまざまな室内楽曲を作曲する一方、弟子の教育や家庭での演奏を目的として『インヴェンション』(BWV 772~801)、 『平均律クラヴィーア曲集第1巻』(BWV 846~869)などのクラヴィーア作品を集中的に書いています。1720年夏、領主レオポルト侯に従っての旅行中に妻が急死する不幸に見舞われ、翌年、宮廷歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚。やがて、モーツァルトに大きな影響をあたえた末子ヨーハン・クリスティアン (1735~1782) を含む13人の子供が生まれます。アンナは有能な音楽家であったと見られており、夫の仕事を助け、作品の写譜などもしていたと言われています。有名な『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集』はアンナのためにバッハが贈った楽譜帳です。

1723年、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントルに就任し、同時にライプツィヒ市の音楽監督にもなり、教会カンタータ、『マタイ』(BWV 244) と『ヨハネ』(BWV 245) などの受難曲や『クリスマス・オラトリオ』(BWV 248) など、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けました。

1749年頃に、以前より患っていた内障眼が悪化し、2度にわたって手術を受けましたが回復せず、その後は病床に伏し、『フーガの技法』(BWV 1080)の未完成のフーガ1曲を残したまま、1750年7月28日に65年の生涯を閉じました。

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